【地区w】

〜 mind, wonder, pray 〜
地区w、wはwonderのwです。
地上かつ、地区dから見て右手一帯にあります。
植物がジャングルのように生い茂る場所で、
かつては地区uさらに地区gに繋がる地下への扉がありました。
地区wには、いのちに起きる不思議が漂っています。










【地区w〜chiku in metonymyland〜】

 2019.10.25

たどり着いた先で、地区は今日も穏やかだった。
ミムラは、言葉の織物を織っていた作業から一息ついて、うーんと伸びをすると、地区dの入口にあるポストを凝りもせず覗きにいこうと歩いていった。
すると入口の一歩手前に、立っている人がいた。右手には、前にnobodyが教えてくれた、サッカーボールらしきものを抱えている。
「どなた?」とミムラはいぶかしげに聞いた。
「マナです」
「初めまして」
「初めまして」
二人とも、ぎこちなく挨拶をしてお辞儀をする。
「地区に知らない人の形をした人が入ってくるのは、ミムラが地区に戻ってきたときに一瞬だけ出会ったどろんぱ以来」とミムラは言った。
「あたし、mymulaさんのそばにいたはずだったんですけど」
マナは、少し所在なさげにしたあと、持っていたサッカーボールを地面に落とすと、足で浮かせながら蹴りはじめた。
だきちゃんやうーちゃんやぎーちゃんも珍しそうに寄ってきて、ぎーちゃんが我慢できずにボールに手を出しそうになったところで、マナはひょいっとボールを取り上げて、ちょっと困ったようにミムラを見た。
「そうねぇ。ここにはいきなり来ちゃうからねぇ」とミムラはフォローする。マナは、ボールを両手の間で持っていじりながら、
「あたし、生まれてまだ3カ月しか経ってなくて、いろんなことちっとも分からない」
と言った。
「え? そんな立派に育ったような身体で??」
「でもそうなんです」
「ふうん」
ミムラはちょっと考えて、それから、「あなたの声、どこかで聞いた気がする。あ! そうだよ、サッカーボール。地区に来てたサッカーボールの声! 地区が突っ込んだ先で置いてきちゃったけど」と言った。
「???」
「あー! じゃあ、あなたが」
「???」
「そっかぁ、地区に来てくれたんだ。っていうか、ってことは、mymulaがあっちで危機的なのかもしれない?」
「え?」
「大丈夫大丈夫。地区が動いてるなら大丈夫。それは置いといて、会ってみたかったんだー」
「あたしに?」
「あなたは彼女じゃないんだろうけどね、ミムラとmymulaの関係みたいに。地区にはね、いる必要がある間しかいられないから、まぁゆっくりしてって」
「はい」
マナがにこっと笑ったので、ミムラは安心した。
「あの、、ここの中、ちょっと見て回ってもいいですか?」
「うん、いいよ、案内したげる。まず、この居住地区が、地区d」
「分かれてるんですか?」
「そうなのね、多分」
ミムラはマナを連れて、地区dを出た。
「それからここが地区m」
「わぁ、きれいな湖。あ! 今、下の方をなんか大きなのが泳いでました」
「それは人魚のsokoさん。mymulaの大切なお友達だよ」
「へぇ」
「それからこっちが」
とミムラは別の場所に向かって歩いた。
「地区w」
「すごい、草がジャングルみたい」
「ここはちょっと土地が濃いみたいで、植物の成長が早いというか元気なんだ」
「へぇ」
「他にもここからつながってる地下があって、いちばん底に地区全体を支えてる莎久父がいる場所があるけど、今は扉が閉まってる。空の上にも地区fがあってそこへのはしごもなくなってる」ミムラは久しぶりに確かめるように言った。「地区から離れた場所にいる人として、地区fにはぎーちゃんのお母さんのねこさんもいるはず。地上には、遠くに魔女のヒグチさんとか、royさんのアニメーションでできた森もあったな。おそらく地区はあれからかなり移動しているから、もう辿り着けないだろうと思う」
「いろんな人が住んでるんですね!」
「住んでるっていうかねぇ。ミムラも気づいたらここにいたし。。ま、あなたもね。でも、ここに来たからには好きなようにしていいんだよ?」
「そうなんですか? じゃあ、、、あの!」
「はい!」
「さっきの地区wっていうところ、植物の成長が早いって言いましたよね?」
「うん」
「一部だけお借りしてもいいですか?」
「どうぞ。何するの?」
「えー、、芝生を育てたいです」
「シバフ?」
「はい。草の一種で、ふかふかなんです。どうやったら生えますか?」
「うーん。その芝生とやらのこと考えて、ふかふかー!って叫べば?」
「それで生えるんですか??」
「あなた次第」
マナはちょっと腕組みしてから、
「まずは草取り!」
と言って、地区wに行くと、端っこから張り切って作業しはじめた。







 2020.4.14

「おかえり、って、え、nobody!どうしたの?!」
「ちょっと、具合いが悪いんだ」
「いいから横になって!」
ミムラは、久しぶりに地区に帰ってきたnobodyが咳き込みながらぐったりしているのでびっくりして、慌てて家の中に寝かせました。
「どうしよう」
ミムラが途方に暮れていると、マナがいつもの練習から帰ってきました。
「え?ミムラさん、どうしたんですか?」
「nobodyが帰ってきたんだけどね・・・」
マナはnobodyのところに行くと、明らかに具合いが悪そうなので、額に手を当ててみました。
「すごい熱・・・」
「熱?」
「身体が熱くなっちゃうことですよ。なんだろう、咳も出てるし風邪かな」
「風邪?」
「うーん、なんて説明したらいいのか、身体の中に病気が入っちゃうことです」
「どうしたらよくなるの?」
「熱は冷やして、身体はあったかくして、、栄養のあるものを食べて、、」
マナはそう言うと、
「氷ってここではどうやって作るのかなぁ」
と首をひねりました。
「水をつめたーくするんですけど」
するとミムラが、地区mの湖で汲んできた水を、目の詰まった文字の布で包んで、ぎーちゃんを呼びました。
「ぎーちゃん、これを、地上の高いところに持ってって、冷やしてきて」
「あーなるほど」
マナは感心してぎーちゃんを見つめました。
ぎーちゃんは無表情で布をくわえると、つむじ風と一緒に空高く飛んでいって、しばらくすると戻ってきました。
「すごい!できてる氷」
マナは喜んで、それをnobodyの額の上に置きました。
nobodyは、苦しい息の中から、
「君がマナだね、ありがとう。地上の世界ではちょっと人間たちが大変なんだ」
「mymulaさんが出てくる夢で、何となく分かっています。少ししか感じられないですけど、向こうにいるあたしの身体も気をつけてるみたいで」
nobodyはマナの言葉にうなずくと、そのままぐったりしてしまいました。
ミムラは、nobodyの身体に手を当てながら、
「nobodyは身体を持ったままここにいられる唯一の人だから、、地上のことも引き受けてきちゃう」
「そうなんですね」
ミムラは、そのままマナを見上げると、
「nobodyがもっとしゃべってくれればいいんだけど」
と言って、
「あとは栄養ってのがあるものがいいんだっけ?」
とマナに聞きました。
「うーん、地区でもそういうのが有効なのか分からないですけど」
そのときミムラが後ろを振り返って
「うるさいな!」
と怒鳴ったのでマナはびっくりしました。
「どうしたんですか?」
「ちょっとあそこの、、うるさかった」
「あそこって、え? ヨーグルト?」
「ヨーグルト?」
「あれヨーグルトじゃないんですか? そう思って食べてた」
「あれは、だきちゃんに子どもたちができた頃から出てきたお乳を、もったいないからとっといたらできちゃったやつ」
「乳だからできたのか・・・」
マナは感心しました。
「前はあんなじゃなかったんだよ? お乳のままだった。マナの芝生のところで生えてきちゃった別の植物、実がおいしそうに思えたからとっといたのね。それを横に置いとくようになってからああなった」
「すみません、芝生を生やすときに変な雑念が入ったかも・・・」
「いいよ、なんか、あの、ヨーグルト? おいしいし」
「はい! 確かにうるさい音があそこらへんからしてますね・・・」
マナとミムラは改めてヨーグルトの方を見ました。
「なんで騒いでるんだろう?」
「あー・・・もしかして」
「何?」
「うーん、自信はないんですけど、mymulaさんが昨日、夢に出てきてて。あたしは直接は会わなかったんですけど、菌同士なら話ができるかもとかって、腕組みしてて」
「ん???」
「あの、、nobodyさんの身体に入っている病気って、もし風邪の系統なら、ウイルスって言って、菌の一種なんです」
「きん?」
「とっても小さい生き物です。で。ヨーグルトにも菌が入ってるんです」
「その小さなの同士、菌で、菌に、話してもらう?」
「たぶんそうです。人間の身体と仲のいい菌と話し合ってもらって、身体と一緒に住めるような状態にまで変わってもらうって、mymulaさんは言ってた感じです」
「ふうん。もしかして、自分たちが役に立てるよって騒いでるのかな」
そのとき、nobodyの横で座っていたうーちゃんが首をガバっと上げて、きしゃーっと鳴きました。
「そうらしい」
ミムラは納得しました。
マナはその展開にちょっと目を大きくしながら、
「その説はともかく、乳からできてるヨーグルトみたいなものなら身体にとって栄養があるのはたぶん確かなので、nobodyさんに食べてもらうのはいいと思う」
「わかった、マナありがとう。マナすごい、いろんなこと分かる!」
マナはサッカーボールを抱いたまま、ちょっと恥ずかしそうに笑いました。
「なんかー、ここに来たばかりのときよりも、だいぶ何が何だか分かるようになってきました」
「いきなりここに来たら誰だって驚くよね。大丈夫大丈夫。ほんとありがとうね」
ミムラとマナはヨーグルトのところに行って、木のお椀にすくうと、nobodyの身体を起こしてそっと食べさせました。
「その菌とやらの言葉が通じるのか知らないけど、あとは話し合いに任せる!」
ミムラは潔く言った。
「気持ちならきっと通じます。他にもできることがないか考えてみましょ」
マナはジャージの袖を腕まくりすると、腰にびしっと両手を当てました。
「二人ともありがとう」
nobodyは咳き込みながら、
「これでね、地上でのヒトの立場が変わるんだよ。これからは他のみんなともっと仲良くなるんだ」
と言いました。
「それがいいね」
とミムラは言いました。







 2020.4.16

「マナ、こんなときに頼むのは心苦しいのだけれど、mymulaをね、助けてあげてほしいんだ。今、彼女は最後の力を必要としてる」
nobodyは横になったまま、マナを呼んでそう言った。
「あたしにはほとんどmymulaさんの世界について分かりません。そのあたしにできますか?」
マナは答えた。
「むしろ君にしかできない」
nobodyは、マナの目を見てはっきりと伝えた。
「助けられる自信はないです。でもあたし、mymulaさんに会いたい。きっとここにこのままいても会えないって思います」
「そうだね」
「どうしたらいいですか?」
「それは僕には分からない。でもmymulaに会いたいという気持ちがあるなら、きっと道が拓けると思う」
「分かりました」
マナは、それからいつものように地区wの芝生に、サッカーの練習に行った。

いつものメニューをこなしていたマナは、ある場所で足をなにかに引っ掛けて思いっきり転んだ。
「いったー。何よ!」
マナが振り返って芝生の間を探してみると、そこには唐突に取っ手があった。
「?? 何これ」
マナはひざまずくと、取っ手を持ち上げた。
すると、それは扉になっていて、下には階段が続いていた。先は真っ暗だった。
マナは、直感的にこの先にmymulaがいると分かった。
「これあたし行くのかな?」
マナは、ボールを抱き寄せ、その場に正座してしばらく考えていた。すると、ミムラの声がした。
「マナ、そこに行くなら、みんなを連れてって」
「ミムラさん」
だきちゃんとうーちゃんとぎーちゃんが揃ってミムラの後ろにいた。
「私もかつてその道を通って、うーちゃんたちに会ったし、mymulaにも再会したの。きっと、うまくいく」
ミムラは真面目な顔でそう言うと、それからちょっと笑った。
「でさ、それも持ってくの?」
「これ?」
マナはサッカーボールを持ち上げた。
「うん、それ」
「持っていきます。地区での私の相棒なので」
「そう。いってらっしゃい」
「はい、いってきます」
マナはちょっと仕切り直すようににっこりして、うーちゃんたちを連れて扉の奥に降りていった。

マナはゆっくり階段を降りて、地区uに入っていく。
真っ暗な中を、けれど、かつてミムラが経験したように、しばらくすると、うーちゃんを生み出した火の群れたちがマナを取り囲み、あたりは明るくなった。うーちゃんはそこらへんを飛んで一周すると、マナの頭の上にがしっと止まった。
「いたっ」
マナは鉤爪のあるずしりと重いうーちゃんを支え直しながら、さらに降りていく。
あるときマナが持っていたサッカーボールの縫い目がほどけた。サッカーボールは、12枚の五角形と20枚の六角形のパーツに分かれ、緑色に透けて、歩きつづけるマナの身体を覆った。
そして、マナの身体は、文字のアーキタイプ(原型)が虫のように蠢き、そこで作られた糞が、地区の地下にびっしりと生えた根と深く愛し合うさま=土が生まれるところを目撃する。
「ここ、人の通った気配がない」
でも、マナの心は落ち着いていた。
「みんないてくれるしね」
だきちゃんはマナの横でかすかにねばねばした音を立てながら、うーちゃんはマナの頭の上でときたまぐるぐると鳴きながら、ぎーちゃんはマナの斜め後ろで小さなつむじ風を立てながら、ついてきていた。
「mymulaさん、行くからね」
とマナが声に出したとき、衝撃が来た。マナはそこで気を失った。

ばらばらになっていたパーツを、だきちゃんが、自分の身体から、かつて自分が編まれた糸を出し、それをうーちゃんが、自分の翼の一枚一枚になっている、人の腕で器用に縫い合わせ、最後にぎーちゃんが突風を吹き込み、サッカーボールは再生した。ころころと転がる緑色の透けたサッカーボールを見て、3匹はすっかり満足した。
そこは、ぽかんと開けた場所だった。

マナは目を覚ました。目の前に、再生したサッカーボールと、だきちゃんたちがもぞもぞしていた。
「あ、あたし・・・」
マナはサッカーボールを抱き寄せるとそう言ったが、その声にちょっと違和感を覚えた。
「あれ?」
「だいぶ若返ったね」
少し先で低い声がした。声のする方を見ると、一匹の小さな亀がいた。
そして、その前で、赤ちゃんが泣いていた。
マナは一瞬でそれが誰か分かった。
「mymulaさん!」
そう言って駆け寄ると、赤ちゃんを抱き上げて後ろに下がった。
「何したの!?」
マナは亀に言った。
「何もしていないよ。自分の服を見てごらん」
「え?」
マナが自分の身体を見ると、着ていたのは高校時代のユニフォームだった。
「これ高校のときの。あたし、いま高校生?」
それで納得がいった。自分の声が昔に戻っていたのだった。
「mymulaが生まれ変わったとき、君は高校生だったんだね」
マナの腕の中で、赤ちゃんはいつの間にか泣き止んでいて、マナを見てあどけない顔で笑った。マナもにっこり笑い返した。
「mymulaはね、あの頃から、一部がここに置き去りになっていたんだ」
「あなたは誰ですか?」
「私かい? 私はmymulaの父親だ」
「あなたが・・・」
マナは、mymulaが、もうずいぶん前になくなった父親との間に深い葛藤を抱えていたことを知っていた。mymulaの中に現れるこの父親が、自分とmymulaとの関係に反対していたことも。
「なぜあなたはmymulaさんを、あんな辛い目に遭わせたんですか」
「そんなつもりはない」
亀は静かに言った。
「マナ、正しいことというのはね、その内容が時代によって異なり、永続的には意味を成さないが、その時代をその人が生きる力にとっては大きな位置を占めているんだ。しかし、同じ時代にいてさえ、正しさは個々の生き物同士で異なっている。私の生きる正しさと、その頃のmymulaのそれには大きな違いがあった。その違いが、mymulaを破壊したんだよ」
「破壊したじゃないですか!」
そのとき、高らかな明るいトランペットがほの暗い空間に鳴り響いた。マナは、そのメロディをよく知っている気がして、勇気づけられた。
「破壊は私のせいでもmymulaのせいでもない。隔たりが人を壊すこともあるんだ」
マナはこらえて黙っていた。
「だから人が変わる必要があるときには、その隔たりをできるだけ柔らかくして、受け止められる形にしていかなければならない。そうでなければみなが一斉に壊れてしまう」
「一般論にしないでください」
「すべてに通じることだ。壊れてしまったものを修復するには、とてもたくさんの時間といのちへの信頼がいる。mymulaがこの事態を本当に受け止めきるためには、この仕組みへの理解が必要なんだよ」
赤ちゃんは、マナにだあだあと言って、手を伸ばしていた。マナはそっと赤ちゃんを抱きしめた。
「大丈夫だからね、もう大丈夫」
赤ちゃん特有のいい匂いがした。

ミムラは、地区にいて、いつものように言葉の織物をしていたが、地区wの方でものすごい音がするのを聞いて、地区dを飛び出した。
「マナたちに何かあったのかな」
すると、かつて、地区ができたばかりの頃に地区wの四隅にミムラが植えた、「し」「ん」「じ」「て」の4本の木がものすごい勢いで太く育ち、伸びているのが分かった。
「こいつら伸びすぎて地区fまで行っちゃう気がする」
ミムラはくつくつ笑った。真ん中の「る」のところにあった地下への扉は、すでに閉じられていた。マナはもうここからは帰ってこられない。でも。
「成功したんだね、マナ」

亀は目を細めて言った。
「私は、mymulaにつながるすべてのいのちの祖先、そのいのちを生み出した土地の小さな一部になった。mymulaを守るためにね。最後の力を持っていきなさい」
亀のしっぽに生えていた蛇がするするっと伸びてきて、赤ちゃんのmymulaの左腕に巻き付いた。
マナがびくっとするのを亀は制した。
「心配いらないよ」
蛇が巻き付いたのをほどいたとき、そこには石のブレスレットができていた。濃い赤い石の連なりの間に透明な石が4つ挟まれていて、そこにはそれぞれ何かが彫られていた。その一つが亀の形に見えて、マナはぱっと顔を上げた。
「それがだきちゃん、うーちゃん、ぎーちゃん、そして私、みんなの力をmymulaに伝え、mymulaの仕事を手伝ってくれるだろう。私たちはいつでも、そばにいるがね」
亀はそう言うと、ゆっくりときびすを返して暗がりへとたどたどしい足取りでゆっくり歩いていった。
「あの!」
マナは叫んだ。
亀は振り返らないまま言った。
「君が言うように私の存在がmymulaを壊したことは確かで、その事実は変わりようがない」
しっぽの蛇がゆらゆらと揺れながら、亀の身体の周りをめぐっていた。亀は続けた。
「さっきのトランペットの音楽は、mymulaが壊れた瞬間に流れていた曲だよ。ある映画作品に登場するものだ。その作品が生まれた年に君も生まれた。おそらく、そのときからもう、君がmymulaを救うことは決まっていたのだろう」
マナはそれをじっと聞いてから言った。
「何か、mymulaさんに伝えたいことはありますか?」
「はは、その子はみんな聞いていると思うが、そうだな。お母さんを大切にと。現実でその子を支えているのは彼女だ。そして君もね。ありがとう」
「あたしは・・・」
「いいんだよ、今ここに君がいること、それがすべてだ。何も気に病むことはない。帰り道のほうが険しいかもしれない、mymulaを頼む。気をつけて」
「はい」
マナは、赤ちゃんを抱く腕を少し強めて、そう答えた。赤ちゃんはあたたかかった。いのちが腕の中にあることを、マナは無条件に愛おしく思った。
亀の姿は闇の中に消えた。
「さぁ。帰らなくちゃmymulaさん」
マナは赤ちゃんのmymulaを片方の手に抱き直すと、もう片方の手でサッカーボールを拾った。
「みんなも、地区のミムラさんのところまで帰るよ!」
ぎーちゃんたちにそう号令をかけて、マナは無敵に笑った。







 2020.5.1

マナは暗闇の中で頑張って歩きはじめる。
すると遠くの方に下から光のようなものが漏れていた。
みんなとそこまで行ってみると、そこは青い空の上で、下に雲がたなびいていた。
「あたし、地下に来たんじゃなかったっけ??」
マナは首を傾げた。飛び降りるにしても、あまりに下が何も見えなかった。
けれど、ぎーちゃんを先頭にうーちゃんもだきちゃんも何の抵抗もなく飛び降りてしまったので、マナは腹を決めてmymulaを抱きしめると、えーいと飛び降りた。

飛び降りてすぐは怖かったのだけれど、ぎーちゃんが大きな麒麟になってマナたちの周りを大きく旋回して、優しい風を起こしてくれていた。マナの身体は、風に乗って、のんびりとした落下傘のようにゆらゆらしていた。腕の中のmymulaはにこにこしている。
「うーん、あたしどうなる」
そうして長いこと経って、地上が見えてきた。降り立ってみると、そこは山の上だった。
足元の岩の間を、細く水が流れている。
「山かぁ。前にmymulaさんが話してくれた山かな・・・。もう何が何やら」
すると腕に抱いたmymulaが突然わんわん泣き出したので、マナは困った。
「うんちかな、、違うな。じゃあお腹が空いてるのかな・・・」
地区ではお腹が空くことのなかったマナは、人はお腹が空くことを思い出した。
「mymulaさんはこれきっと一部は本物の身体だから・・・。でもあたしはお乳出ないし、ここにはミルクもないし、どうしよう」
すると、だきちゃんがマナの足元に擦り寄ってきた。
「だきちゃん、あんたは乳が出るね!! うーん、でも飲ませて大丈夫なのか」
マナがそう言うと、だきちゃんがぐわーっと上半身、龍になって、マナの目の高さまで上がると、マナをじっと見た。
「え、あんたって龍だったの??」
マナは一瞬怯んだけれど、じっと見つめ返した。龍の顔は間近で見ると怖かったし、髭も生えてゆらゆらしているし、なかなかのプレッシャーだった。でもマナは、その目を見ていたら、何だか安心してきた。
「そうだね、だきちゃんに任せる」
だきちゃんとmymulaを両手に抱いて、マナはだきちゃんのお乳をmymulaに飲ませた。mymulaは喜んで飲むと、ご機嫌になって、マナに抱っこをせがんだ。
「はいはい、おいで」
マナはしかし、足元の地面を見ながら途方に暮れた。
「この山、あたしに降りられるかな・・・」
mymulaを抱いたままで足元を探っていくのは、かなり不安だった。
「うーん、せめて抱っこひもでもあれば・・・」
マナは急に現実的になって、抱っこひもを想像してみる。
すると、だきちゃんが、もぞもぞしながら、お尻から糸を出しはじめた。上半身の龍の部分は、すっかり元通りの何だか分からないだきちゃんに戻っていた。
「だきちゃん、それ何よ?」
マナは、だきちゃんが水の糸からできた頃のことはもちろん、さっき地区でだきちゃんたちがサッカーボールを再生したときのことも意識がなくて知らなかったので、不思議に思って聞いた。
しかし誰もマナの分かる言葉で答えてくれるものはなく、うーちゃんが翼の腕を2本出して、糸をすくい上げ、何か編み出すのを、マナは
「うーちゃんって器用なのねぇ。っていうか人の手って器用」
と感心して見ていた。
彼らがその作業に一生懸命なので、マナは
「まぁここで急ぐ必要もないか」
と思って、その場に座った。暇していたぎーちゃんが横に寄り添って寝そべった。
自分の下半身が目に入ったら、マナの服は、元通りのものに戻っていた。声も、試しに出してみるといつもの声に戻っていた。
「ここはきっともうあの場所とは違うところなんだ」
マナはつぶやいた。

ぼんやりあたりを眺めていて、抱いていたmymulaが何か言ったので目をやると、mymulaの身体に、緑色のきれいな小さな蜘蛛が止まっていた。
「あら、きれい」
「mymula?」
するとそこから調子の悪い無線機みたいな声がしたのでマナはびっくりした。
「僕だよ、nobody。そこにいるかい?」
mymulaはその声を聞いて楽しそうにしていた。マナは一生懸命、蜘蛛に向かって話した。
「nobodyさん!? え? どこから?」
「あれ? マナかい? mymulaになら向かって飛べたから、発信器を送ってみたんだ。音が悪いかもしれないが」
「大丈夫、聞こえます。それより具合いは?」
「なんとかね。ただ、まだ熱が下がらない」
「ぎーちゃんを連れてきちゃったし、氷が作れないですね・・・」
「いや。それが」
nobodyの咳き込みながら笑う声がした。
「だきちゃんの子どもたちが、代わりばんこに額に乗ってくるんだよ。気持ちいいらしいんだ、この熱い額が」
「なるほどー」
マナは感心した。
「そうだ、nobodyさん、ミムラさんに、きのこって伝えてください」
「きのこ?」
「きのこも菌って聞くし、なんか頭に浮かんだので。地区の地下を降りているときに思いついたんですけど、伝える手段がなくて」
「そうか、きのこも味方になってくれるかもしれないね。さて、地区wに生えているかどうかだな。ミムラに見てもらうように頼んでみるよ。ありがとうマナ」
「それとですね、今、だきちゃんが出す糸でうーちゃんが編み物してるんですけど、もしかしてmymulaさんの抱っこひもを編んでくれているみたいなんです」
「ちょっと待った、抱っこひも? 抱っこひもと言ったんだね? それじゃあ、mymulaは赤ちゃんかなんかの状態なのかい?」
「えーっとそうですよね、そうなんです、mymulaさんは今、赤ちゃんです」
「そりゃ大変だ。僕の呼びかけに答えられないわけだ。そもそも赤ちゃんは持ち運びが大変だろう」
「ここ、山の上みたいなんですけど、降りていくのにちょっと危なくって」
そうこうしているうちにできあがった抱っこひもには、なんとサッカーボール入れもくっついていた。マナは目を丸くして、
「ありがとう!」
とうーちゃんに抱きつきそうになったのだが、うーちゃんはぱっとかわして、きしゃーっと返事をした。
「さぁmymulaさん、これで万全! かな? まぁ最善は尽くしてるってことで。行ってみよう」
マナは、細い水がつらつら流れる岩に沿って、注意深く山を降りていった。







 2020.6.29

マナは、赤ちゃんのmymulaを抱えながら、ともかく一生懸命、下っていた。
足元はかなり危うく、だんだん水量も多くなっていた。
あるとき、やはり足を滑らせた。
「やべ」
そう言うと同時に、マナは水の流れに乗って一気に落ち、滝壺のようなところに突っ込んだ。

水の中に落ちて、あとは自然にまた浮き上がるものと思っていたのだけれど、マナの身体はそのままどんどん沈んでいった。
不思議と呼吸が苦しくはない。mymulaも大丈夫そうだ。
だきちゃんがそばで泳ぎながらうろうろしていた。
うーちゃんとぎーちゃんは、さすがに水の中には入ってこられなかったらしい。
あるとき、サッカーボールが、抱っこひもの編みの中から抜けて、浮いていってしまった。
「あー。今は仕方ないか」
マナは、ふわふわ浮いていくボールを見送って、さらに沈んでいった。

明るくも暗くもなくなったところまで沈んだとき、mymulaが、きゃっきゃと笑ったと同時に、少しずつ大きくなりはじめた。
そして、抱っこひもから抜け出した。
マナは、mymulaの手を握った。
mymulaはマナと手をつないだまま、だんだんと子どもの姿になって、少女になっていく。

ある時点で、成長が止まった。
マナよりも少し歳下だろうか。
すると、mymulaが苦しみはじめた。
マナの手を握る力が強くなって、マナは黙ったまま、強く握り返した。

水の底から、湧き上がるように、何かの大群がやってくるのを、マナは気配で察した。
先頭にいるのは、ミムラが地区mのところで教えてくれた、湖の底を泳いでいた人魚だった。
そしてその後を、様々な魚たちがいっせいに泳ぎ上がってきていた。

人魚のsokoさんは、マナの前まで来ると、にこっと笑った。
それでマナは、この状態が危険ではないことが分かった。

魚たちは、mymulaの身体を取り囲むようにつついた。
あまりにたくさんの魚たちが群がったので、マナは手を放した。
目の前の塊は、もう、魚たち以外に何も見えなかった。

sokoさんが、マナの手をとって、少し塊から離れるようにうながした。
そこにだきちゃんが来て、ちょっと身体に力を込めると龍の姿になり、その大きな長い身体で、塊を泳ぎながらぐるっと取り囲み、ぐるぐる回りながら、あるとき、長い、大きな声で鳴いた。
その声は水の中を轟き、マナの身体すらも振動した。
魚たちは驚きもせず、塊に群がっていたが、龍の声が止むと同時に、群れを解いていった。

そこに現れたのは、髪の生え際に白髪の混じった、小太りの女性の姿だった。
左手首には、地区uでもらったブレスレットが、そのままはまっていた。

「mymulaさん」
マナは、自分が見慣れたmymulaの姿を見て、むしろ安心して、mymulaを呼んだ。

sokoさんと魚たちは、お祝いをするように散らばってあたりを泳ぎ回ると、水の底に帰っていった。
だきちゃんは、さっさといつもの「抱き抱きするもの」に戻って、あたりをのんびり泳いでいた。

「マナ」
mymulaは、恥ずかしそうに、マナの名前を呼んだ。

「マナ、私、なんか、育った」
「はい」
「ちゃんと、心も育ったみたい」

mymulaが、自分のことを精神年齢が幼いのだと話していたことを、マナは覚えていた。
「心が、今の年齢に追いついたんですね」
「うん、多分」
「おめでとう、で、いいんですか?」
「どうだろ、20歳から一気に年取っちゃって、なんか実感ないよ」
mymulaが笑って、マナも笑った。

「でも、50年生きたんだって、いきなり分かったんだ」
mymulaは、表情に力を込めて言った。

「よく頑張りましたよ?」
マナはそう言った。
「ありがとう」
mymulaは、また恥ずかしそうに答えた。

「マナ、こんなところに連れてきてごめんね」
「いえ、地区?って面白いところでした」
「そう?」
「芝生を呪文で一気に生やしたこと、あたし一生忘れません」
「え?ははは、普通生えないよね、呪文じゃ」
「はい、普通、生えません」
マナとmymulaは、水の中でくつくつ笑った。

「あたし、帰るんですね」
「うん、私ももうここにはいられない」
「一緒に帰れる?」
「いや、この先、会えるかどうかも、今は分からない。地区で会ってしまったからね」
「そうですか」
「でも、マナとの思い出も、地区でしてくれたことも、私にとって、一生の宝ものだよ」
「あたしが役に立てたなら良かったです」
「マナにしかできなかった」
「なんか、すごかったです」
「うん、すごかった。ほんとに、ありがとう」
「ミムラさんに何も言えないままになってしまう」
「大丈夫、彼女には、分かるから」

そう言うそばから、mymulaもマナも、身体が透けていった。
だきちゃんが、二人のいた場所を、なぞるように泳いだとき、二人の存在は地区から消えた。



地区dのミムラのもとに、うーちゃんとぎーちゃんが戻ってきた。
だきちゃんがいないのを見て、ミムラは、
「やっぱり帰ってくるとすれば、あの水のルートなんだな」
とつぶやいた。
織物が切りのいいところまでいってから、ミムラは手を休めて、地区mに歩いていった。

「きっと、うまくいったんじゃないかな、いろいろ」
今や、地区wの「信じてる」の木の根元に生えていたきのこの力も借りて、nobodyはすっかり元気になっていて、地区wの方から歩いてきて、ミムラにそう言った。
「じゃあ、ミムラの役割も、終わりかな」
ミムラは、初めて、地区に暗闇の中で放り出されたときのことを思い出して、そう言った。
「どうだろうね」
nobodyは真面目な顔で返事をした。
「地区自体がもはや比喩としてだけじゃない形で存在しているから、重力関係的に言ってここを解除できないかもしれない」
「え?」
「いやいや、いいよ、もしね、この先があってもなくても、この場所はなくならないってこと」
「ふうん」
「ここには時間というものがないから、ある意味なくなりようがない」
「わかんない、何言ってるのか」
「僕にもよく分からない」
nobodyはそう言って、思わず口元を緩ませた。

「あ」
ミムラは、地区mの湖を見て、指差した。
「何?」
「ボールが」
「ああ、ほんとだ」
湖の上に、緑色のサッカーボールが浮いていた。
と、だきちゃんが水上に現れて、それを頭で押して、ミムラたちのところまで持ってきた。
「おかえり、だきちゃん」
ミムラがそう言って、nobodyがサッカーボールを拾い上げると、ミムラたちは、みんなで地区dに帰った。












【地区w〜病とは何か〜】

 2020.4.19

きっかけは、ツイッターだった。
ずっと、思考の肥料をくださっている上妻世海さんのツイート。
相模原の障害者施設での殺傷事件で死刑判決を受けた人に関するツイートであり、そこからインスパイアされた小野ほりでいさんのnoteの記事による考察を読み、ずっと考えてきたことに一つの結論を見たと同時に私自身の回復を見た。

今日はそのことを書こうと思います。

相模原の事件に関しては、ずっと、「障害」というのは、そして「病」というのは何だろうということと並行して考えてきた。命を奪われた側のことも、命を奪った側のことも。
私自身が、今現在の時点で、統合失調症を発症し=精神障害を抱えて、20年になるからかもしれない。
「障害」によって社会から外れている立場、受け入れられない他者を排除してしまう「病」の立場。両方、何か自分の理解の範疇にある感じがして、言語化を試みていた最中だった。
その上で、このお二人の「過剰社会性」への指摘という示唆をいただいて、今回の事件における「病」の部分に関してはすごく腑に落ちた。「過剰社会性」に関する詳細は、小野ほりでいさんのnoteの記事をご参照いただきたい。



【記事】"有用性"は精神病の入り口ではないか(note・小野ほりでい)2020/03/26 https://note.com/onoholiday/n/ne570dafce6d8

私はこのツイートを受けて、次のような引用RTをした。

この記事には、「有用性」を重視するあまり、無条件に発生しているはずの人権が脅かされる、現代の日本社会の構図が解説されている。
事件というのは、いずれも(人が属する)社会が起こすものだと個人的にも考えているので、社会問題としての考察はとても大切だと思う。

私が考えていたことは、もう少し、個人寄りのことだった。そして、自分に近い問題だった。
社会というのは、ある程度、人が抱える常識というか方向性が共有されていないと成立しないのだろうと思う。それをスムーズに実行できない人は、社会から外れ、認定があれば「病人」であったり「障害者」になったりする。
そしてこの中で「病」というのは、そもそも、本来は社会的な状態の人が、身体に(心がしんどい場合は脳が関係しているのでこれも身体のうち)ダメージを負った状態、社会的身体を休む必要がある状態だと考えている。

今回、相模原事件の一連のことを考えていて、有用性や、過剰社会性という示唆をいただいて、自分が病気になった理由の根幹を得た気がした。

統合失調症の発症には、「ダブルバインド」(二重拘束)というものが関係していると言われている。ダブルバインドとは、ごく簡単に言うと、幼い子どもに親が「友達はみんな同じように大事に」と言うと同時に「誰々ちゃんには負けちゃダメよ」と言ってしまうことを指している。子どもにとっては、2つの拘束がそこに存在する。子どもは、そのどちらもを同時に実現しようとすると壊れてしまうので、相手によって片方だけを自分の真理として選択したり、パーセンテージを割り当てて実現するようにして、社会性を養っていく。病に陥るのは、このダブルバインドの拘束力が強くなりすぎたときだと考えられる。

私にとってのダブルバインドは、「正しさ」における拘束だった。世界の中には、自分が無意識のうちに信じている正しさというものがあると思う。
それに従って私たちは物事や行動を判断しているし、実行している。
私の心が壊れて、統合失調症の状態に入ったのは、正しさのダブルバインドによる衝撃であった気がしている。

私が初めてこの正しさのダブルバインドに直面したのは、オウム真理教の人たちとの出会いだった。1996年のことだ。
当時私は「NEVERMORE」という文芸誌(ミニコミ同人誌)の編集をやっていた。同人誌は1990年から始まっていて、まだ少部数の印刷をやってくれるところも少なく(ようやく同人誌を終える頃に、コミケの隆盛で対応してくれる印刷屋さんが多くなってきたあたりだった)、紙面レイアウトソフトの走りだったPage Makerを使って作った版下を大量にコピーして、自力で製本すると言った手作業だった。そのコピーを頼んだ先が、思いがけずオウムに関係するところだった。
この件について、1999年に私は自分の限界を感じて同人誌を終了し、その直後に発症してしまったのだが、1999年にご丁寧にもお葬式サイト(当時はまだホームページを作る人が多少いるくらいのインターネット時代だった)を作って、同人誌の終焉をカウントダウンし、そこで初めてこの件に公式に触れた。
そのときのページのHTMLがとってあったので、仮にアップしておこう。
http://www13.plala.or.jp/mymula/nevermore/kaiwa.html
このときの私は、自分にとってのいわゆる通常の社会的な正しさと、オウムに属する人たちが1996年の時点で選択した彼らの正しさとの間で、大きく葛藤した。ごく一瞬の短い会話の中で明かされた彼らの立ち位置、それを選ぶ覚悟と彼らにおける正しさを、私は否定することができなかった。それを同人誌において誰とも共有できなかった(無反応だった)ことにも深く傷ついた。

マイナーな同人誌をやっていると、少数のという意味でのマイナーだけでなく、マイナーな思想、ときには先鋭的な政治系のミニコミの方々にも接する機会があった。そうしたいわゆる反社会的と言われる正しさは、私にとってはほぼ問題ではなかった。それは思想の自由の範疇に入れることができたからだ。
しかし、オウムの件は、もっと大きな社会的な現象だった。今考えると、世界における全体主義の成れの果てとも感じられる。攻撃の対象が外国人でなかったことは、攻撃の対象が無差別であったという難題を考え入れても、日本が他国との戦争を免れたという点で幸いだったかもしれない。
この件で、日本において「信じる」という行為が、とても難しいものになった印象がある。

同時期、私は、幼児の頃に両親が離婚して別れた父が、孤独死で死後半年近くで木乃伊で発見され、その事後処理を一人で引き受けていた。大学の助手の頃から、全共闘時代を戦い、結局そのまま最後まで戦いつづけてしまった人が残した様々な形跡は、質・量ともに私を圧倒した。
けれど、その残した日常一つ一つに向き合っているとき、そこに確かに一人の人間の生活と人生があったこと、そしてそれは他人から見たら社会的に否定されるべきものであっても、一人の人間としては決して否定されるべきものではないということを思った。父の選んだ正しさと、私の正しさには、大きな隔たりがあったが、それはそれでよいと思っていた。
彼が実の父であるかどうかにも、あまり関係がなかったように思うが、他人にはここまで(死後の事後処理まで)深く関われないのも事実だ。父は晩年、どうも統合失調症の毛があったような痕跡が見受けられたので、私の病気は遺伝の可能性もある。
父とは、20歳のときに成人になった証拠にと、義理の父親に勧められて文通を始め(有り体に言って義父に試された行為だったが、それとは関係なく父との関係の構築は、この機会から少しずつでも進めるつもりでいた)、上記の同人誌にも、趣味で作っていた俳句を、父であるとは同人メンバーには言わずに投稿してもらっていた。
父がなくなり、同人誌から死者が出たというのに、私はそのことをすぐにメンバーに知らせることができなかった。隠したかったのではなく、何をどう説明していいのか皆目分からなかった。

どちらの事態も、「正しさ」という点では、私の中で、折り合いがついたはずだった。
しかし私は壊れた。それだけ容量の少ない、底の浅い人間だった。
同人誌を続ける自信がなくなったのも、自分の中での正しさの設定が分からなくなり、この先の方向性を見いだせなくなっていたことにあると思う。
そして20年が経った。
私が直面した正しさの葛藤に答えが出たのかと言われれば、何も解決していないというのが正しいだろう。
しかし、今は、正しさというものについて、自然界の生き物や土地も対象に入れて考えるに、それが共通するところの驚くほどの狭さと、実在するところの驚くほどの広大さが理解できるようになった。
個を超えて共感するということの不思議と、幸福と愛、知恵の種類もまた、感じることができるようになった。
時間が経ったからなのか、身体が老けたからなのか、考えつづけてきた結果なのか、理由は分からない。

1990年当時から発病までの約10年間に私が夢に描いていたのは、誰しもが自由に発言し、また作ったものを発表できる世の中だった。
それは2020年現在、インターネットの発展と個人端末の発達及びそれを補助してくれる数々のシステムやアプリによって、まったく違和感のない状態で実現している。
そこから発症している問題もないわけではないが、私のかつての夢はすでに叶った。
だから、次の夢を描こう。

あらゆる息づくものが、共有できる土地・星の環境になっていくこと。あらゆる息づくものに協力を願いながら、その実現のためにヒトが寄り添っていけるように変わること。

あと20年で叶うだろうか。笑。
以前の夢も当時はまったくのおとぎ話だったから、意外と、叶う気もする。

(引用元)
【記事】正しさのダブルバインド(from compartment)2020/04/19
http://fromcompartment.blog.jp/archives/54538047.html






 2020.4.23

統合失調症に関する記述第2弾。
昨年冬からお世話になっている主治医の先生に書いた手紙の一部分で、weed voiceとしてフェイスブックに上げた文章です。



(前略)
先生のところに通えるようになって、本当に有り難く思っております。

自分が回復中だからなのか、すでに回復したからなのか分かりませんが(体調的にはまだまだいろいろ問題はあるのですが)、いろいろ病気に関して感じること、考えることが出てきました。
以前なら、同じ思いつきであっても、まだ症状が重いことから、自分の認識が社会的に有効なのかどうかが分からずにいたのですが、どうやら発症から20年経って、積み上がった記憶や体験から、社会的に病気に取り組んでいる方にお話してもよいものも出てきたかもしれない、と思いました。
もちろん、私の到達した認識は、すでに多くの人が到達して、医療の現場で役立っているかもしれません。
診療時間中にお時間をお取りするのは気が引けたので、このような手紙の形にさせていただきました。
完全に系統だって話せるわけではないので、断片的な状態であることをお許しください。
(私にいろいろと言ってくるヒトは、私が病気に関わることをあまりよく思っていないようですが、この20年私が確かに社会の片隅で生きてきた状態でもあり、社会的身体からの逸脱=病気について考えることもまた、人の暮らす形態の一部として大事なところだと思っています)

20年統合失調症をやってきたわけなのですが、急性期の主な症状として出てきたのは妄想でした。
妄想の中では、現実にいて夢を見ているような感覚で(統合失調症の患者は夢を見ないと言われますね、それは現実で起きている時間に夢と同じことをしているからだと体験的に思います)、夢の中では現実よりもいろいろな点で自由なのと同様に、現実よりも遥かに可能性の高い時間を生きることになります。
ある事象に対して、ヒトが耐えられるのは、確率的に35%〜85%くらいじゃないかと思うのですが(50%がニュートラルで、何もいいことも悪いことも起こらない状態です)、妄想の中にいると、それがほとんど0から100までありうる世界に放り込まれます。
いろいろな事象に対して、常にその可能性を抱えているので、相当にプレッシャーが高くなります。
妄想と言うと、現実から外れた部分だけが採り上げられがちで、実際、体感している自分も日常と異なるという点で現実から外れそうな部分だけがクローズアップされがちですが、実際にはちゃんと現実と同じ中間部分も可能性として存在していると思います。
これが何から来るかと言うと、極度な危機意識なのだろうなぁと。
統合失調症は強度なダブルバインドによるものであるとか、いろいろそこに至る原因は個々のケースで様々だと思うのですが、いずれにしろ、自分にとっての(自分の身体にとっての)極度の危機意識が、典型的症状である妄想を生むのだろうと考えます。
危機意識下では、あらゆる可能性に備える状態になります。何が起こっても耐えられる身体になろうとするために、現実においても夢と同様の、可能性の高い状態に陥るのではないかと想像します。
なので、この危機意識下のある状態に効く薬は、唯一「安心感」かなぁと思うのです。
妄想状態にある患者は、一般的に物理的な拘束か、薬による拘束を手段として講じられていますが、それでは症状の解決にならない。おそらく、社会規範を外れたことに対する不寛容と無理解がそうしたものを生むのだろうと思います。もちろん、不可解なものに対する恐れを抱くなという方が難しいのは承知で、しかし、そうしたメカニズムに対する理解が生まれることで、また対症療法も変化させていくことができるのではないかと思います。
少し、話が脇道にそれますが、私はいちばんの急性期に、痴呆症の祖母と一緒にいる時間がありました。
そのとき、不思議なことに、それまで何を言っているのか分からなかった祖母の言葉が、ほぼツーカーで分かるようになってしまったのです。会話が通じる・・・。その状態に興奮した記憶があります。祖母はこんなことをこんなふうに考えていたのかって。
厳密に言うと、いわゆる常識の範囲内での会話のツーカー度ではなく、このときだけに起きていた現象でした。
統合失調症は、若年性痴呆症という別名も持っていた時期があるようですが、統合失調症の妄想と、痴呆症における妄想は、現実との距離、現実からの比喩の距離が非常に似ているのではないだろうかと、今になると思います。
これが、ふと、痴呆症は、死に対する危機意識が、痴呆症特有の妄想を生むのではないかと考えました。
死を受け止めるのが難しい場合、こうやって、危機意識を高めて、死の状態を受け止められる身体になろうとして、妄想状態に入る、現実ではない状態に入って備えるのではないかと、痴呆症に対して感じるようになりました。
いずれも、起こりうる危機的な現象に対して身体中で「備える」のが目的なのであり、単純に常軌を逸しているのではないということです。
このことによって、時代と関係なく統合失調症が生まれる理由が、ほぼ解明できるのではないかと思います。時代によって、感じる危機意識の対象は異なると思いますが、どの時代でも危機意識を感じる現象はありえたと思われ、またその危機意識が、個人的な事情を越えて、時代が起こす矛盾に対する違和感を感じ取っていたと言えるのかもしれません。
痴呆症の患者においても、拘束は対処療法として使用されていますが、これについても、もし死への危機意識に対する現象であるなら、もっと多くの人に理解が得られる症状になるのではないかと思われ、ただの拘束対象にはならずにすむかもしれません。
統合失調症でも痴呆症でも、拘束は、危機意識をさらに煽ってしまうことになり、決して状態のいい方へは導かないように感じます。拘束がただ人権的に悪いというのではなく(それもそうなのですが)、身体が直面している危機意識をさらに進めてしまうことにおいて、その方法はよくないと思うのです。
痴呆症でも大事なのはおそらく「安心感」で、死が本人が感じているようなたぐいの怖いものではないということを、本人に対して、理論的にではなく、ただ宥めるのでもなく、そういう安心を与えられるような態度でいられればどうだろうと考えます。重度の精神障害者の方々が、日常的な場面で若干でもコミュニケーションを取れるようになることで、暴力的な態度が収まることがあると伺うように、相手が提示するコミュニケーションの場に立って、応答できるように、医療現場だけでなくその家族みんながなっていくことで、奇異と感じる症状は少なくとも程度として収まっていくようになるかもしれません。
物分りがいいように、人徳の厚い人間になれと言っているのではなく、最もお互いに楽になれる方法を探った方がよい、という視点から考えてみました。

ただ患者歴が長いと言うだけで、偉そうに語ってすみません笑。
今回の世界的な状況は、いろいろなものを崩すと思いますが、最も大事なことはちゃんと残り、またそうしたものを守る形に変化していくでしょう。人間間では誰の責任でもないということにできる今回の状況を、人間として最大限に穏便に活用し、ヒトの考え方や脳も、地球環境で生き残る形に合わせて進化していく必要があるのかもしれません。
できなければ種として絶滅するか、突然進化して他の種になるだけなのですが、心のエネルギーを複雑に緻密にブーストできるヒトの存在は、地球にとって悪いばかりのものではないようです。
力を貸してくれる土地の存在もいるので(向こうも治癒を、ヒトからのものも含めて望んでいます)、一気に事態を転換させることで傷つく人が出るのを避け、少しずつ様々な分野で調整をしながら、仕事を進めていきたいと思っています。
(後略)



これは、+Mさんという方のツイキャスを聴きながら考えを広げていったことです。
+MさんもおそらくFacebookにはいらっしゃらないと思うけれど。謝辞として。

主治医の先生にはどう思われるか分からないですが、こういうことを話せる主治医だということが、最大に貴重だと思っています。



(補足)
+Mさんのツイッターはこちらです。